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<家族のこと話そう>父母のおかげで命拾い 

17/03/05

弁護士・河合弘之さん 東京新聞「暮らし」欄

 父は京都大経済学部を出て、「一旗揚げてやる」と当時の満州(現中国東北部)に渡りました。旧満州国がつくった電力会社に入り、日本軍の軍医の娘と結婚。私は三人目でやっと生まれた待望の男の子だったので、とてもかわいがられました。

 

 戦中は恵まれた生活で、社宅には当時は相当に珍しかった冷蔵庫もあったそうです。しかし、それは終戦で一変。父が家財道具を売ったり、近くの池でザリガニを捕ったりして、なんとか食いつないだ。旧ソ連が攻めてきたときに略奪に遭ったという話も聞きました。家を閉め切って外に出られず、太陽に当たらなかったり、栄養不足だったりで私が一歳のころ、病気になった。そのときも医者に行けず、O脚のように脚が曲がった。私が小柄なのは、そのためだと思っています。

 

 日本人の中には、寒くて食べ物もなく餓死したり、死ぬくらいならと、わが子を中国人に託したりする人もいた。それが中国残留孤児。死と隣り合わせの生活です。

 

 私は二回命拾いしています。一回目は終戦直前のころ。父たち大人の男が軍から公園に呼び出されて、「第一乙以上は前に出ろ」と言われた。一定の体格以上の人のことで、他の人は前に出たそうですが、父は嫌な予感がして動かなかった。前に出た人たちは召集され、終戦後にシベリアに連行されたと聞きます。もし父が正直に前に出ていたら、母は一人で私と二人の姉、一歳下の弟の幼子四人を抱えて戦後の混乱を生き抜かなくてはならなかった。私は死ぬか、残留孤児になるかしていたでしょう。

 

 もう一回は、終戦の一年後。日本への引き揚げです。二歳だった私は母に抱っこされていましたが、船が出る港までは大変な道のり。私たちは栄養失調になり、弟は途中で亡くなりました。「弘之は何が何でも生きて連れて帰る」と母が死ぬ気で守ってくれました。ようやく日本の父の実家にたどり着き、医者に行くと「あと一日遅ければ死んでいた」と言われたそうです。

 

 自分は幸運だった。自分は孤児になっていたかもしれないという思いから、一九八四年に「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」をつくり、約千二百五十人の日本国籍を取りました。

 

 何か人のためになることを、という思いは常にあります。いま心血を注いでいる原発の運転差し止め訴訟は、人間にとって最も根源的なことは何かと考えてのことです。つまり、後世にいまの地球を残すこと、環境が一番大切だと思ってのこと。

 

 父と母は、決して権力におもねらない人でした。権力が悪いことをしていたら、声を上げる。その考え方は、私にも伝染していると思います。

 

 聞き手・河野紀子/写真・由木直子

<かわい・ひろゆき> 1944年、旧満州(現中国東北部)生まれ。東京大在学中に司法試験に合格。20年前から原発の運転差し止め訴訟に関わり、東日本大震災発生後に結成した「脱原発弁護団全国連絡会」の共同代表を務める。製作・監督した原発のドキュメンタリー映画「日本と再生」が東京で公開中。

 

東京新聞【暮らし】欄 2017年3月5日

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